つれづれ小道

だいたい二次元にいるオタク。鉄道擬人化とか刀剣とか舞台とか旅行などが好き。

「山河令」で粽(概念)を投げられなくて感謝すると共に泣いた話

今日は5月5日の端午の節句ですね。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
柏餅を食べましたか?粽(ちまき)、食べました?私は柏餅を数日前に食べまして、今晩のお夕飯に粽を食べる予定です。

この3月に軽い気持ちで見始めた中国のブロマンス古装ドラマ「山河令」(さんがれい)が5/3、5/4のコンサートで一旦幕が下りまして、「もしかしなくても、これって『楚辞』じゃん!!!!!!!?」と騒ぎ続けることになった2021年の春の花盛りが終わるのが新暦端午の節句、そして立夏というタイミングに胸がいっぱいの本日です。

 

未だにツイッターで「山河令 楚辞」で検索すると自分のツイートしか出てこないことに笑ってしまうのですが、weiboで検索すると「「山河令」を見て『楚辞』を買った!」って人が存在していたので、楚辞で騒いでいる人もこの地球上には私以外にもちゃんと存在してます!存在してる!

まず、サブCPの男女CPの曹蔚寧(ツァオ・ウェイニン)という彼が『楚辞』の「九歌」の一節を諳んじて顧湘(グー・シャン)に向かって「(『楚辞』の「九歌」に出てくる湘夫人と同じで)良いお名前ですね」と褒めたりします。山河令コンサートのポスターで曹蔚寧くんは『楚辞』(文字が反転していますが)を抱えているので、それだけ顧湘のこと大好きなんだね!っていうのを象徴する『楚辞』という表現があります。

そして、何といってもメインのOP曲が「天問」という『楚辞』に出て来る一篇のタイトルそのままで、主人公の周子舒(ジョウ・ズシュー)が『楚辞』の作者である屈原を彷彿とさせる話になっています。しかも最終的に“これまでみんなが助けたかった屈原”を実現してくれた作品なのではとなっているんですよ。屈原のような悲劇の主人公そのものになってしまいそうな主人公を助け出してくれたことで、これまでずっと誰も助けられなくて、彼の死を悼んで粽を川に投げるしかなかった我々(主語がデカい)は手に持った粽(概念)を投げることができないんですよ……粽(概念)を投げることができない終わり方に感謝すると共に、粽(概念)を投げられないことに泣いてしまったのでした。

※粽(概念)については後ほどもう少し詳しく書きます。 

 

ちなみに、曹蔚寧が愛の告白的に諳んじた7話と29話の漢詩についてはぷらいべったーにまとめました。

privatter.net

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「山河令」とは

「山河令」は「天涯客」というBL小説が原作の中国のドラマで、中国は同性愛表現などがドラマでは禁止されている関係で二人の男性がお互いかけがえのない知己になるブロマンス作品として作られてはいるんですが、明らかにラブラブデートですね?みたいなシーンや、台詞を吹替で変えて何とか検閲突破したりとした作品だそうです。武侠モノのスタンダードをとても大切にしながらも、原作の好きなところをドラマにしようという力強さを感じる作品でして!みんな見てくれー!中国語だけどー!

西北の国の暗殺集団「天窓」の首領だった周子舒(ジョウ・ズシュー、阿絮(アシュー)が“江湖”(武侠的江南世界)で温客行(ウェン・カーシン、老温(ラオウェン))と出会い、伝説の武器庫の鍵「瑠璃甲」を巡る大騒動に巻き込まれながら知己となる二人とその周辺の人々のお話です。

暖かな陽射しの下で日向ぼっこをしながらお互いの名前を呼び合って酒を飲みあうという生活を今までしたことがなかった二人の光の描写がとても美しいんですよ。息子(弟子)と三人で旧正月を穏やかに迎える瞬間があったりして、こんな理想的な幸せな時間がいつまでも続いて欲しかった~~~!!!!!!(泣)みたいな気持ちにもなるんですけど、それはそれとして違う結末に落ち着くので倒れます……私は倒れてしまった。

現在、YOUKUアプリまたはYoutubeで視聴が可能。Youtubeは英語字幕は公式がつけてくれているのと、自動翻訳機能で魔翻訳的日本語(笑)で見ることが可能です!

www.youtube.com

 日本語字幕版はそのうち来る予定らしい!配信があることは発表されております(一応今のところアマプラという話です)。日本に来たらみんなたち宜しくね!!!!!!

 

『楚辞』とは

『楚辞』は戦国時代の楚(紀元前11世紀 - 前223年)の地方の歌にのせた詞。戦国時代末に生きた屈原の作品、および屈原を哀悼する気持ちから作られた後継者たちの作品群に付けられたタイトル。北方を代表する『詩経』と比較しても南方的風俗、信仰、表現が盛りだくさんで江南を凝縮した詩。全17巻。内容は悲劇的な憤りと共に神話世界を旅する「離騒」、放逐された屈原が心の憂いを天に問いかける「天問」、彷徨う屈原の魂を招こうとする「招魂」など。後の時代の陶淵明杜甫などが江南を舞台とする漢詩の多くに典拠としている。

屈原とは

屈原(紀元前340年頃 - 紀元前278年頃)は中国戦国時代の楚の政治家、詩人。楚の三大世家のひとつ屈氏の生まれで祭祀を担う家柄。王の側近であったが、30歳前後と60歳前後の二度王朝から放逐され、絶望して川に身を投げて自殺する。『楚辞』の作者として仮託される人物であり、楚の文化面を代表すると共に、政治面での悲劇を一身に体現する存在。

西方の秦VS東方の六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)で対立していた時代。楚の首都である郢(えい)の陥落に至るまでに、秦の計略に何度も翻弄された楚の物語の主人公と言えるのが屈原で、秦の計略を見抜き王へ諌言を試みるも聞き入れられず、首都陥落による祖国の悲運に絶望して、5月5日に汨羅(べきら)という長江の支流に身を投げてしまうのであった―――という国を憂う悲劇の主人公の代名詞。

 

 端午の節句の粽(ちまき)の謂われ

端午の節句に粽を食べる習慣は屈原の命日が始まりと言われています。国の行く末を憂いて身を投げた屈原のために川にお供えとして竹筒に入れた米を投げ入れていたところ、屈原の魂が現れ「川に住む蛟竜(こうりゅう)に食べられてしまうので食べられてません」と主張したので、米を香りがある楝(せんだん)の葉で包み、五色の糸でしばるようになったのが粽の始まりと言われています。


粽を投げるのは国を憂いて亡くなった屈原を弔う気持ちからなんですけれど、それは同時にいつまでも水の底に囚われている屈原を思うことでもあって、「楚」という既に存在しない国が何度も名称が蘇ったのと同じように、いつまでも一人の肩に嘆きの概念を乗せてしまっているみたいなものなんじゃないかと考えてしまうんですよね。『楚辞』が屈原の作であろうがなかろうが、“屈原”という存在が悲劇の主人公のような存在であり続けていることは変わりがないのがとても申し訳ないなぁという気持ちと、他にどうしようもないという気持ちで粽(概念)を良く川(概念)に向かって投げたり(概念)してしまう。

 

 「山河令」の『楚辞』っぽさ

「山河令」の主人公周子舒(ジョウ・ズシュー)が屈原を念頭においたキャラクター設計なのでは?と感じたのは、OPが「天問」というタイトルで世界に憂いを問うているというのはもちろんなのですが、置かれた立場や君主との関係性、そして最後の最後の瞬間ギリギリまでこの世からいなくなろうとしていたところだったりします。

 

温客行(ウェン・カーシン)は色々な漢詩を引用する台詞が多いのですが、まだ変装している周くんに向かって川辺で『楚辞』に収録されている「漁父」からの一節を投げかけたりもしています。

「滄浪之水清兮 可以濯我纓」
書き下し:滄浪(そうろう)の水清まば 、以て吾が纓(えい)を濯(あら)う可く
現代語訳:滄浪の水が澄んだならば、それで私の冠の紐を洗うことができよう

「漁父」は滄浪水という川を渡してくれた漁師が放逐されて放浪する屈原に向かって歌った(という体の)歌で、あんまりにも清く志が高いと行き詰まるからもっと清濁に飛び込んで行こうぜ!追放されたことは大したことないよ!という内容のものです。これを温くんが周くんに投げるエモさ〜!

 

周子舒は王の元でより良い国を作って欲しくてずっと動いてきたのが暗殺集団となってしまって、しかも自分の仲間達も失ってしまった訳です。もうこのままでは居られないと自分の身体に釘を打って余命短い身体になって、西北の国から江南の“江湖”の世界に飛び込むところから始まります。川(概念)に身を投げる感じじゃないですか?などと、『楚辞』的に最初から盛り上がってしまったりしてた。

そんな余命わずかな周くんは“江湖”で温客行(ウェン・カーシン)という知己に出会う訳です。お互いに一人でずっと色々なものを抱えて来た者同士で、その抱えているもののせいで全てを話せなくて心を開くことが難しかったりしていたのが、その重荷を分け合いたいと思うようになったり、関係性もそれぞれの生きる目的も変化していくんですよ!!!!美味しい!!!!!

 

※ここからは大きくネタバレしてますのでご注意ください

 

周くんは王の前から姿を消したのに見つけられてしまって、もう一度王の元へ行く流れがあるんですけど、屈原も楚王朝から二度放逐されているんですよね。『楚辞』の代表作である「離騒」は一度目の放逐の際に書かれたと言われていて、その憤りも勢いがあります。周くんは再び王に対面して話してみたけれど、やっぱり王の元には仕えられないとなって温くんに助け出されて“江湖”に戻って来るんですよ。

温くんの最終的な目標がギリギリまで明かされないまま進んで行くので、お互い知己になっていても、そこでー!?というタイミングで周くんと重大なすれ違いがあったりしてうっかり死期が早まってしまったりするんですけど、そういう流れもあって最後の武器庫に駆け付けた周くんは死ぬ気満々なんですよ!しかも頭に温くんの簪を挿した状態で。

そんな流れになってしまったけれど、温くんは周くんを絶対に死なせたくない。周くんのためなら自分の命を失ったとしても、周くんには生きていて欲しい。温くんも周くんが絶望して死にたがっているというのをずっと気にしていたけれど、最後の最後で一緒に生きたいって言われたのを確認して、自分がいなくなったとしても周くんには生きていて欲しいという選択をする訳ですよ。

いなくならないで欲しい。
その魂をこの世界に繋ぎ止めたい。
それってめっちゃ『楚辞』の「招魂」なんですよ!!!!!!!

これこそ「魂兮帰来」(魂(こん)よ帰り来たれ)ですよ!!!!!!!

最終回の36話って「招魂」なんじゃないのかーーーー!!!!?と大盛り上がりしてしまった訳なんですけど、温くんは今まで私たち(主語が大きい)が悲しい悲しいって粽を投げていたところから周くんを引っ張り上げてくれたんですよね。

大感謝!!!!!!!圧倒的大感謝!!!!!!!!

そして、36話では最後に可能性だけを見せた状態での幕引きになる訳ですが、本編では見せてもらえなかった「大结局彩蛋」(サプライズ最終回)で恐らく「陰陽冊」という経脈をどうにかする方法が書いてある本で、温くんも髪の毛は真っ白になってしまったけれど二人で生き残っていたことが分かります。

「陰陽冊」って何だったんだ?については「大结局彩蛋」を見た直後に考えてみたふせったーがこちらになります。

fusetter.com

ただ、この二人って温くんが周くんを助けようとしている時点で叶白衣と同じように冷たい山の中で氷雪だけを口にすればずっと変わらずに生きていけるけれど、暖かい食べ物を食べたら老化が始まって死んでしまう体になっている。

武器庫は“江湖”から離れた西北の雪と氷に覆われた高い山にあって、二人が出会った暖かな“江湖”からは遠く離れてしまっている。そんなところに閉じ込められて一人残されたらきっと周くんだってどうやって生きて行けばいいんだろうってなったんじゃないかと思うんですよね。自分の為に命を捨てようとしてくれた人がいるから、そう簡単に死のうとは思わなかったかもしれないけれど、そうなると冷たい水の底にずっとひとりでいる屈原みたいじゃんかよー!って泣いてしまうじゃないですか。36話だけで終わったらもう粽(概念)を投げまくりだったと思うんですよね。

でも、周くんは一人じゃなくて温くんが一緒にいるんですよ。暖かな“江湖”の世界で温かい食べ物を食べたり酒を飲み合ったりできなくても、二人でいるからいつまでも神話の世界のようにくるくると仲良く戦ったりして永久に一緒にいられるENDなんですよ。

(ところで、あのくるくる回りながら戦う二人、比翼連理なのでは!?って大盛り上がりした)

今まで私たち(主語がでかい)ができることと言えば粽(概念)を投げながら悼みつつ、悲しい話じゃ~~~ってべそべそするだけだったんですけど、「山河令」は二人で楽しそうにしているので、手に持った粽(概念)も投げられずにありがとう~~~!!!!!て泣く事しかできないんですよ……温かい食べ物を食べてしまったら――山を降りたら二人が仲良く笑い合う姿は見れなくなっちゃうんですよ……お互い以外を失っているからって粽(概念)投げられないよ!となる訳です。そうなると、もう私には倒れて泣くことしかできなかった。


作品がずっと「江湖見」(江湖で会おう)って主張していたので、余計に“江湖”から抜け出ると思わなかったんですよね……あの雪山はずっと抜けることができない輪廻みたいな呪いからの解脱の先の場所みたいなものに見えてびっくりしてしまった。こういう結末になるとは思っていなかったです。

まだ全話放送される前に発売された雑誌のインタビューで、周くん役の張哲瀚さんが「悲劇の主人公と言われていますがどう感じていますか?」みたいな質問に、「自分は悲劇の主人公とは思っていないです」って答えていたのが本当にありがたくて嬉しかったんですけど、お話自体が一人じゃなくて良かったなぁというところにありがとう「山河令」と拝むばかりでした。

 

「山河令演唱会」(山河令コンサート)の構成について

5/3、5/4の二日間に渡って行われたコンサートはこれで役者さん達が「山河令」の世界と別れをする機会でもあったんだなぁとなっているのですが、その構成がとても良かったです。

初日の5/3は結婚式に参列する時の衣裳で雪山に二人が帰って行ったんですけど、二日目の5/4は四季山庄という周くんの故郷に帰って行ったんですよ。話の流れからすると、中盤に四季山庄、最終話が雪山なので逆の構成でも良かったはずなんですよね。それを花盛りの四季山庄で幕を下ろす選択をしたことにとても嬉しくなってしまって。

「山河令」ファンのことは「山人」って呼ばれてまして、見終った後もみんな「山を降りたくない~~~」と言っているところなんですけど、コンサートは山を降りて終わったんですよ。

最後の最後で、短い期間ではあったけれど穏やかに過ごした人里に帰って行ったんですよ。花が満開に咲く人里に帰って行く二人を見て、神様みたいになっちゃった二人が人に戻る瞬間を見せてもらったような気がしてしまって……寂しい気持ちも大きかったんですけど少しホッとしていました。

これから羽ばたいていく周くん役の張哲瀚さんと温くん役の龔俊さんの二人に、温周の二人はこの世界に連れていってもらえるんだなぁというような、今はそんな気持ちになっています。

ありがとう「山河令」ー!!!!!!
こんな状況だけど、春の花盛りの時期に出会った物語として忘れがたいものになると思います。

 

以上、「楚辞楚辞言ってるけど何なんだ?」と周囲からとても不思議な顔をされていた気がするのでこんな盛り上がり方をしていましたという話でした。あくまで勝手な受け取り方なのですが、色々と嬉しい作品でした。

そして、こんな長い文章を読んでいる方がどれほどいるか分かりませんが、ここまで読んでくださってありがとうございました。


以梦为马,天涯再会!

日本語版の「山河令」に出会えることを楽しみにしています。

 

<参考文献>
新書漢文大系23『楚辞』星川清孝著、鈴木かおり編/明治書院/平成16年6月20日
シリーズ中国の歴史②『江南の発展‐南宋まで』丸橋充拓著/岩波新書/2020年1月21日
新釈漢文大系『楚辞』星川清孝著/明治書院/昭和45年9月10日